例の、桜宮高校の体罰問題で、最近メディアでさかんに体罰の可不可が議論されています。
わたくしは、絶対ダメ!派の人が苦手です。
ちょっと残念になります。
念のために断っておきます。
わたくしが空手の指導で道場生を叩くことはありません。
その上で体罰を容認したいという意見を述べます。
今回の場合、世間は体罰、体罰、と騒いでいるが、これはまず体罰ではない。ただの『暴力』です。
基本的なわたくしの考えは、去年の2月のこの記事にほぼ述べております。
2012年02月14日『世の空手指導者に問います』
より抜粋
~英語にはForceとViolenceとふたつの単語がありますが、日本語ではどちらも暴力と訳します。
Violenceは、文字通り暴力と訳しても差し支えなさそうです。
本来は『秩序を破壊する行為』という意味です。
だから、授業中のおしゃべりはバイオレンス。
誰かを殴らなくても、授業の進行という秩序を壊す行為なので暴力です。
そのおしゃべりを教師がやめさせる行為をフォースと言います。
Forceとは『秩序に従わせる力』。
場合によっては生徒を叩くこともあるでしょう。
ところが、いくら人を叩いても欧米ではこの場合の教師の行為を暴力とは言わない。これはForceなのです。
Forceは、秩序に従わせる力。
Violenceは、秩序を破壊する力。
英語を話す人は、武道を習う以前にForceとViolenceの区別が明確にできるのです。
でも、日本人にはこの区別がわからない。
人を叩く行為は何でもかんでも暴力です。
子供社会においては
『おまえ、あいつを殴れ。やらんかったら俺がおまえを殴る』
というような、どうしようもない選択に迫られることがある。
そんな時に、何が正義で、自分がどちらを選択するのかの判断ができてこその空手道だと思うのです。
~引用おわり
わたくしが問題提起したいのは、いわゆる『体罰』とは『Force』すなわち『秩序に従わせる力』であるべきだということです。
マスコミその他は盛んに体罰の是非を論じていますが、まず今回の場合は『体罰』ではなく『暴力』であるということ。
だって、試合や練習でのミスは、別に秩序の破壊ではないから。
指導者に言われた通りのことをそれなりにやっている子供を叩く。
『今でも充分だが、もっとよくなれ』と叩く理屈があるだろうか。
ないよね?
ないから暴力と言ってるんです。
桜宮高校のケースは、単なる教師のうっぷん晴らしなんです。
イライラの解消なんです。
この生徒は、学校秩序を何も乱していないのに教師に叩かれている。
それなのに『体罰』と、言葉だけをうまいことすり替えやがった。
そういう意味で『体罰』は容認、でもただの『暴力』には反対です。
昔叩かれたことのある先生を擁護したり、『場合によっては体罰も必要』という声がちょこちょこありますが、あれはきっとみんな『Violence』は良くないが、『Force』なら必要、と言いたいんじゃないのかな。
行儀よく真面目なんてクソ喰らえと思って、夜の校舎の窓ガラス壊して回ったり、盗んだバイクで走り出したりするのは、明らかに公共の秩序破壊でしょ。
学校の先生がこんなのを抑止するのにすら体罰行使を全面的に禁止されたら、いったい誰が破壊行為をやめさせるのですか?
日本各地で北斗の拳的な世紀末伝説が始まっちゃいます。
みんなその『場合によっては』の定義ができないから、何が何でも絶対反対!派に世論が寄り切られているような。
追伸。
2012年07月02日『負けた選手を殴るセコンドについて』
『先生はダメだが、親ならば子供を叩いてもよい』というアホな意見がありますが、どっちもダメに決まってます。
『親だけは特別』って、アホか。子供の人格は親の所有物ではない。
わたくしは、空手の試合会場で、試合に負けた我が子をボコボコにする親を頻繁に見かけます。
親だから特別なのでしょうか。
親だから許されるのでしょうか。
親は別、って、それがViolenceなら、親だろうが先生だろうがダメに決まってます。
逆に、それが社会秩序を守るためのForceなら、別に親じゃなくても、先生でなくとも、たとえ近所のおっさんでも、いや、初対面の通りがかりでも、Forceの公使は当たり前じゃないでしょうか。
後から聞いたのですが、この前なんて幼稚園生の部で負けた子供を、マウントポジションから殴り続ける20代の父親がいたらしい。
そこの道場の先生も父兄も一切しらんぷり。
その若い父親の腕を掴んで止めに入ったのは、ウチの道場生のおばあちゃんです。
これこそ、れっきとした『Force』です。
なにがなんでも体罰は全面禁止!とまくしたてる人は、きっとただの傍観者。
少林寺拳法の宗道臣師は
『力なき正義は無力なり。正義なき力は暴力なり』
とおっしゃった。
現場の人はそんな傍観者の意見に耳を傾ける必要はないと思います。